「ありがとう」
司馬懿は隣で安らかに眠る曹丕の頬にそっと、手を添える。
――子桓様――
いつからこのような関係になったのか。
いつも冷静な司馬懿がそう思考をめぐらせるのは、眠る曹丕を見ている瞬間が多い。
出会った頃は当たり前だが、ただの主と臣だった。
かったるいとさえ、感じる毎日。
適当にあしらっていようと決めていた。
しかし、主君の曹操とその息子の曹丕は違っていた。
才能も思考も行動も自分と似通う二人は今まで会ったことがない人間だった。
―興味が沸いた―
司馬懿の中でそんな思いが徐々に芽生えてくる。
この二人にだけはいつも見透かされている気がする。
そんな二人に敵わないと思う時さえある。
だが、それすらも利用してやろう。
いつか、自分の前に平伏させてやりたい・・・。
そう望む自分もいるのも確かだった。
気がついたときには、自分が気づかない所にまで、二人に魅了されていた。
そんな自分の気持ちに気づいたとき、司馬懿は無意識のうちに行動を起こしていた。
その日は夜も更け、ほとんどの人が寝静まっている時刻。
そんな夜更けに司馬懿は何かに取り付かれたように、重い足取りで歩いていた。
―曹丕の部屋に―
用もない臣が君の部屋を訪れるのは臣としては最大の汚点である。
それは君臣の間では暗黙の了解になっているが、自ら進んでやろうとする者はいない。
それでも司馬懿は足を止めようとはしなかったが、曹丕の部屋の前でふと、足をとめた。
―寝ているのかもしれない―
考えれば、わかるはずだった。夜更けなのだから。
―何をしているのだ、私は?―
自分の行動に不可解さを感じつつ、司馬懿は自嘲気味に笑みをうかべる。
そんな部屋の前で司馬懿はしばらく自問自答をしていると、急に戸が開いた。
「!」
司馬懿はそのまま、室内に引っ張られる形になった。
「人の部屋の前で何をしている?」
「曹丕様!」
寝起きでもなく、普段と変わらない曹丕がそこにいた。
机の上にはいくつかの書簡が転がっていることから、今まで仕事をしていたのだろう。
司馬懿はそう思った。
司馬懿は乱れた衣服を整えながら、目の前にいる曹丕を見ていた。
「戸の向こうで人の気配がしてみれば、お前がいようとはな…」
特に嫌がる風でもなく、司馬懿が自らの足でたずねてきたことが曹丕には珍しく見えたようだった。
「曹丕は今までお仕事をなされていたのですか?」
見てわからぬか?と一言付け加えると、お前も手伝え。と命令された。
別に特に用もなく、逆に理由が欲しかったのもあり、司馬懿は自ら進んで仕事をした。
曹丕の隣で仕事をしながら、司馬懿は彼の顔を見つめていた。
白い肌。長い睫毛。
それでいて整った顔立ち。
その一つ一つが何故か司馬懿にとって魅了されたひとつだった。
「…司馬懿」
ふと、曹丕の顔が目の前に現れた。
「私と父は似ているのか?」
突然に降って沸いた問いかけに司馬懿は怪訝な顔をする。
「お前が父を見ているのを知っている。今のようにな…」
ドキンと司馬懿の心が驚いた。
気づかれていた。
知られている。
一瞬、司馬懿の思考は真っ白になった。
何か反論しようと声を出そうとしたとき、唇に何かが触れた。
それが曹丕の唇だと知ったときは何が何だか分からず、ただ、なされるがままだった。
お互いの唇が静かに離れると、曹丕はからかう子供のような無邪気な顔をしていた。
「お前は意外にこういうことには疎いのだな」
意味深な発言をしながら、曹丕は再び、唇を重ねた。
今度はお互いを確かめるように、優しく触れながら、少しづつ濃厚なものへと変わる。
司馬懿は身を任せていたが、途中からは積極的に唇を奪いにいった。
いつか、自分の前に平伏させてやりたい・・・。
そんな司馬懿の願いは遠からず、叶えられていた。
相変わらず、司馬懿の曹丕と曹操の見つめる視線は変わることはなかったが、
その日を境に曹丕との秘め事が日課に加わることになった。
思考を現代に戻しながら、司馬懿は曹丕の寝顔に視線を落とした。
そういえば。と思い出す。
あの後、彼は何といったのか…。
確か…。
思い出そうとすると曹丕が目を覚ました。
「起きていたのか、仲達…」
「まだ、夜明けには時間がありますので、まだお休みになられた方がよろしいのでは?」
曹丕は笑みをこぼし、隣の愛しい人に言葉を告げた。
「ほかに言葉はないのか…仲達」
そう言われたが、司馬懿にはそれ以上気の利いた言葉が浮かばない。
曹丕は司馬懿の胸の中に顔をうずめた。
「しばらくこのままでいさせてもらおう」
曹丕は彼の温もりを確かめながら、思い出す。
初めて彼と唇を交わした日のことを。
彼の熱い視線にきづいたとき、曹丕はみずからの気持ちに気づいた。
それからは父にだけは奪われたくないと、それだけを願っていた。
父、曹操も彼をいたく気に入っていたから。
――仲達、ありがとう。私の所へ来てくれて――
曹丕はもう一生言うことはない言葉を愛しい温もりとともに心に思っていた。
完